
彼が愛したものを求めて(映画『彼が愛したケーキ職人』)
2018/12/10
『彼が愛したケーキ職人』
タイトルだけを見たとき、単純に最近多いグルメ映画かと思った(確かにケーキやクッキーはおいしく見える映画だったけれど)。しかし実際は愛の多様性、深さを感じずにはいられない作品だった。
あらすじ
ベルリンでケーキ職人として働くトーマスはイスラエルから出張中で常連客のオーレンから帰省するときの息子へのプレゼントを相談されたのをきっかけに意気投合し、いつの間にか恋人になっていた。1年後、いつものように帰省し、1ヶ月後には戻ると行ってイスラエルに帰っていったオーレンが事故で亡くなったことを知ったトーマスはオーレンの妻アナトが経営するカフェに向かう。
夫を突然事故で失い、失意の中で生活のために休業していたカフェを再開させたアナトは突然現れたドイツ人トーマスを雇う。トーマスは食物規定があることを知らずに店でオーブンを使ってクッキーを作る。アナトの義理の兄モティは捨てろと激怒するが、アナトはそのおいしさにトーマスがオーブンを使わないようにしてクッキーを売り出し始める。次第に距離が深まって行く2人だが…。
この作品を作ったオフィル・ラウル・グレイツァ監督は、イスラエル生まれの若き監督で、友人から聞いた話を基にトーマス、アナト、オーレンという3人の男女を通して国境や性別、アイデンティティを超える様々な愛の形を描きながら今のイスラエルに生きる人々の生活も映し出す。
妻子あるオーレンを愛してしまったトーマス。足るを知るという言葉を祖母から常々言い聞かされ守ってきていたトーマスだが、愛するオーレンが事故で亡くなったことを知り、いてもたってもいられなくなり、エルサレムに向かう。オーレンから話を聞いて写真も見せられていたオーレンの妻と子に会いに行き、オーレンが忘れて行った鍵を頼りに立ち寄っていた場所にも行く。オーレンを失ったことの大きさを改めて感じながら、彼が愛したものを一つずつ確認し、愛そうとする。オーレンと関わりがあったことを知らないアナトが受け入れてくれたことでトーマスは新たな居場所を見つける。
トーマスを通じて見るエルサレムの今
宗教的慣習が根強いエルサレムで街中が静まりかえる安息日は働かず家族と一緒に過ごす日だが、トーマスには自分がまた一人になってしまったことを改めて感じさせてしまう。非ユダヤ人は火を使ってはいけないという食物規定を理由にオーブンを使って焼いたものを売り物に出来ないということはドイツ人のケーキ職人であるトーマスにはカルチャーショックだ。エルサレムの地での外国人の疎外感は大きい。ドイツ人ならなおさらだ。
アナトはエルサレムに住むユダヤ人の中ではそれほど信心深くはなく、外国人のトーマスや国外から入ってくる文化に寛容だ。だがオーレンの兄モティは厳格なユダヤ教徒で、アナトやアナトの息子にも戒律や食物規定を守るように言い続ける。この2人の考え方の違いは今のイスラエルの姿を投影している。ただモティはユダヤ教の人に親切にするという教えに従い、外国人のトーマスの部屋の仲介もするし、厳しくはするものの冷たくは当たらない。規則を守って生きていくのであればモティにとっては外国人でも住んでいることには問題ないのかもしれない。
作品の中盤に出てくるオーレンの母はトーマスに優しく、オーレンの性志向にも理解を示していたのではないかと感じる。同じユダヤ人で同じ国に住んでいても宗教への信仰心や新しい文化への興味には差があり、社会的な決まりを必ず守らなければいけないと思っている人と柔軟に動こうとする人がいるのはどこの国も同じで日本でも同じことが言えるだろう。
監督が思い描いたキャスティング
グレイツァ監督は映画の完成までに8年を費やした。その間にトーマスを演じられる役者を探してオーディションを続けていた中でネットで偶然ティム・カルクオフを見つけた。2012年に役者デビューをしてドイツのドラマなどに出演していた彼をオーディションの後に抜擢している。トーマスにあまりセリフを与えず、エルサレムを彷徨うトーマスの姿や表情で喪失感や、寂しさを表す。トーマスの抱える寂しさはティム・カルクオフの絶妙な表情から感じられる。オーレンの前では可愛らしさもあるトーマスがアナトの前では男らしさも見せる。人が持つ多面性を見事に表現している。この作品での演技が評価され、2018年のヴァラエティ紙が選ぶ観るべきヨーロッパの10人の俳優たちに選出された。
アナトを演じるイスラエルの人気女優サラ・アドラーも繊細な演技を見せる。監督は6年前から一緒に仕事をしたいと考え、彼女からインスピレーションをもらうためにパソコンのデスクワークに写真を貼っていたという。サラ・アドラーもオファーを快諾。監督が願ったキャスティングが実現し、作品の強みとなって沢山の映画祭で上映され、賞も獲得した。
言葉では表せないもの
トーマスのクッキーやケーキが売れることで店に活気が生まれる中で、トーマスとアナトはお互いの寂しさを埋めるように愛し合って行く。
トーマスはオーレンのことをアナトには語らない。何も言わずにただオーレンが愛し、アナトが美味しいと言ってくれるクッキーやケーキを作るために生地をこねる。そしてトーマスはオーレンがそうしたようにアナトを受け入れる。その一方でアナトはオーレンの遺品からベルリンでオーレンが誰かを大切にしていたことに気がついている。トーマスが作ったクッキーに懐かしさを感じた時にアナトは本当はトーマスがその相手だと気がついていたのかもしれない。ただ現実に向き合えなかっただけなのかもしれない。気がつかないふりをしていれば店も順調でトーマスといつまでもいられると考えたのかもしれない。かもしれないと書いたのは3人はお互いへの愛や思いをセリフで多くは語らないからだ。すべては観た私の想像だ。オーレン、トーマス、アナト。3人の不思議な関係は事実からすればおかしな関係とも言える。だが、誰が正しくて誰が悪いとかを決められるようなものではない。人の心すべてを言葉で表すことは難しい。この映画を観て3人の関係をどう感じるかは観る人の経験や思考によって大きく違うことだろう。
『彼が愛したケーキ職人』http://cakemaker.espace-sarou.com は現在公開中。
東海地区では12月8日より愛知・名演小劇場で公開中、1月26日より三重・伊勢進富座にて公開
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